仏教の教えの神髄について
2500年も昔、お釈迦様の教えをもとに作られた宗教・それが仏教です。
複雑化した仏教
現在、3人に1人ほどの割合で仏教徒がいると言われ日本ではお馴染みとはいえ、実際には様々な宗派に分かれていてそれぞれが違った特徴や違いを持っているものです。半数近くは浄土系ですが、その他の宗派の方もおり現在は13に分かれています。浄土系の中でもいくつもということなので、読み解くとなると複雑です。
何しろ、悟りを開かれた35歳から80歳で亡くなるまでの45年間に説かれた教え、これが釈迦本人ではなく弟子たちによって経典として書き記されていますから自身の主観も大いに入ってきているはずです。更に中国・日本と伝わっていく過程でも解釈は違ってきます。7千以上もあるお経のどれを元とし、それをどのように理解するかで宗派が分かれているのも当然です。そこには飛鳥や鎌倉などその時々の時代背景もあり、権力やお金を手に入れるための変化だってないわけではありません。信者が多くなればそれだけ入ってくるお金も増えます、釈迦の思いからはずいぶんかけ離れた部分もあるのです。
仏教の三法
とはいえ、結局は釈迦は何を伝えたかったのかというと3つに集約されます。「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」、これを仏教の三法と呼びます。
平家物語の冒頭でもおなじみの諸行無常、変わらないものは何もないという教えです。お金や地位・名誉はもちろんのこと、人間関係であったり自身の体だって変わらないものと思ってそこに固執してしまっているはずです。それこそが苦しみを生み出している根源であると釈迦は説いています。当たり前すぎて見逃している事柄を、敢えて強調しているのです。
すべての物事が因果関係により成り立っている、それが諸法無我です。自然界だって食物連鎖の元に絶妙なバランスを保っています。自分が生きているのも持っている財産だって、それは他との関係の中で存在するなら決して自分だけのものではないのです。植物や動物同様に、私自身も生かされている存在だという立ち位置をもう一度確認してみる必要があります。
諸行無常で諸法無我である以上、人生が思い通りにならないのは当たり前です。一切皆苦にはそういった意味があります。その苦しみを出発点に2つのキーワードを正しく理解して世の中を据えることが出来た時、悟りの境地に達するといいます。もうこの世界を生きていく中での様々な現象に一喜一憂する必要はありません。なぜならどうにもならないのだから、その苦しみから解放されることこそを仏教は目指しているのです。
ちなみに、一切皆苦の苦は四苦八苦と呼ばれる8つの苦しみが当てはまります。病気だけではありません、生きること・老いること・そして死んでいくのも含めて、自身ではどうにもならないことはそうなのです。肉体や心が思うようにコントロールできない苦しみや、別れ・憎しみ・求めるものが手に入らないというもどかしさもあるでしょう。生きていれば誰もが実感するこれらは、もしかしたら執着から生み出されているのかもしれません。他とのつながりの中で変化の一つである以上は、どうしようもないのです。
四諦八正道
苦を避けるためにどうすればよいか、それを釈迦は四諦八正道という教えで説明しています。生きていくのは思い通りにならないこと、苦と向き合いその原因を理解し執着を消し去り修行を行うのが四聖諦・悟りへの4つの真理です。
修行と言っても、肉体的にではなく精神的なものです。正しいものの見方を身に付けること・正しい心で判断する・嘘や悪口は言わない・殺生や盗みは行わない・きちんとした生活習慣を守る・善い道に進めるよう努力する・正しい意識や心を持つこと、それが八正道というわけです。いずれもやらなければならないとは分かっているけれどすべてを実践出来ている方はなかなかいません。
当たり前のシンプルなこと、それが真理とされる仏教、でも簡単すぎるからこそ掴みどころがなく扱いづらい点は出てきます。日本にやってくるまでに多くの方が関わってきたこともあり、だからこそ仏教と一口に言っても幅広く分かれて行ってしまったのです。中国の道教の影響も強く受けながら日本に伝来してきたがゆえに、漢字が分かっている日本人には更に分かりづらくなってしまったという点もあります。苦しみから解放されて成仏するにはどうすればよいのか、それは宗教というよりも哲学的なテーマへと変わっていってしまっているのかもしれません。
教えの根源は同じ
簡単に言えば3つに集約される教えの神髄が人々の手を介していく中で様々に解釈され、分かれていきました。でも元になるのは「どうしたら皆が幸せになれるのか」ということ、あらゆるほかの宗教と同じく追及する根源は同じです。それを邪魔する煩悩を消し去って安らかな心を手に入れることが出来たら、悟りの境地に達することになります。単純な心理ながらもそれが本当に難しいことだから、我々はずっと追及し続けているのです。