なぜ坊主は偉そうなのか
日本では古くからお坊さんと呼ばれる立場の方が存在しています。仏に仕える身ということは誰しも聞いたことがある言葉ですが、この言葉通りに1日の多くの時間を普通の人とは異なる生活を送っています。
お坊さんになるには?
まず、お坊さんになるには出家という行動が必要になり、これまでの世俗を全て捨てきり、仏の道に入るというニュアンスではないでしょうか。先祖代々伝わるような家系の出身者の場合は、幼いころから慣れ親しんだ世界でもありますが、このような方以外で、普通にサラリーマンとして仕事をしてきた方や、過去に何らかのトラブルを起こしてしまった方でも改心することで出家が認められることはあります。
厳しい修行の果てに
一般人が出家するには、お寺の住職から認められることが大前提です。いくら自分が出家したいと願っても認められない場合は無理があり、諦める方法と何度もアタックしてみる方法に分けられます。出家をした方の場合は、髪の毛を全て剃り、丸坊主の状態でスタートします。最初の段階では右も左も分からないことになるので、先輩に当たる方々の下働き的な位置で毎日を送ります。お寺により違いはあるものの、多くは早朝に起床をして夜間は早い時間帯に寝るという規則正しい生活が基本です。お寺内や境内の掃除全般を毎日行うことも重要な意味合いがあり、たとえ汚れていなくても修練の1つとして欠かさずに行います。お経を読むという修行もかなり重要で、これが無いとお坊さんとしては成り立ちません。初めての方は非常に苦労することが多く、お経を読み続ける時間も長く、休憩時間が少ないことも特徴であり修行としては当然のように行われています。食事は質素なものが多く、贅沢な食事はご法度です。1日は掃除やお経、宗派によっては滝行や山岳修行や瞑想などが行われることもあり、お百度参りやお遍路なども有名な修行方法として知られています。こうして何年もの修行を積むことで、初めてお坊さんとしての地位を得ることができ、普通の一般的な方が良く見る光景ではお通夜やお葬式、法事などでお経をあげてもらい、説法を拝聴するようなことが多々あります。
一般の仕事とは別世界な修行期間
一般的な方の中には、このような式の際には、担当するお坊さんによっては偉そうではと違和感を感じてしまうこともあるのではないでしょうか。この感じ方は人によって大きく異なり、偉そうに見える背景には普通の人が普通の生活を送っている環境とは、大きくかけ離れた厳しい修行を経験している表れといっても過言ではありません。
一般的な方でも厳しいノルマを課せられた仕事をしていて、十分に厳しい社会で働いていると考える方も多いのですが、僧侶の場合は完全に別世界で他とは比較できない修行を行っていること、社会的立場の観点からも代理を募集してもかなりの修行期間を経なければ成り立たない仕事であることも一因と考えられます。
サラリーマンの場合は3年間程度の勤務により、殆どの知識力を身に付けられることが多いのですが、その期間が普通の仕事よりもかなり長いことも特徴です。そもそも仕事の目的は、住職が主体となって様々な式を取り仕切ります。式や行事に関しては主導的な立場であり、最もトップにいる存在です。逆に偉そうに見えない場合は頼りがいが無いと感じてしまう方も多いのではないでしょうか。権限という言葉は適切ではないかもしれませんが、特殊な仕事を行っている以上、威厳を持って取り仕切ることには重要な意味合いがあります。説法という言葉もあるように、仏に仕える身であり修行で得ることができた知識、培った貴重な経験を基にして説法を行っているので、分かりやすく言えば説法は学校の教師が生徒に学業を教えること以上の内容でもあり、普段の生活では拝聴することが非常に少ない有難いお言葉となります。
これらのことから、偉そうに感じてしまうことがあるものですが、決して偉ぶっていることではなく、市井の人々に人生を説くという貴重な立場である以上は仕方のないことと判断することもできます。
実際には人柄次第?
ここまでは一般的な解釈での内容になりましたが、実際には僧侶により人柄的な違いがあることは隠せない事実です。お経を唱えて説法だけで済ませ、直ぐに引き下げる方が存在していますが、中には腰の低い方も多く存在していて、話し上手でユニークさを前に出しているお坊さんも実在しています。基本的な仕事には変わりがありませんが、元々の人柄により違いが生じてしまうことはどのような世界でも共通していることです。もしも式や行事などで依頼をすることがあれば、馴染みのお寺さんがあれば簡単にお願いできますが、そうではない環境にある方は、今ではお寺もホームページを持っていることが非常に多いので、掲載されている紹介文や僧侶の写真など細かな情報を把握してから、最適に感じるお寺にお願いをすることが良い方法です。この職業になるまでの過程や日々の修行、その後の経験等を鑑みると偉そうに見えても魅力や有難みは十分に感じ取ることはできるものです。